塩分はいつも過剰

おしゃれを偽装したい

それは傲慢なのでは?

期間限定で無料配信されている『骨と十字架』を観た。

(現在まだ配信中です。間に合うよ!明日まで!)

眼鏡の顔が、昔の会社のえらい人(とても頭が良い)に似ていてうまく、ときめききれなかった。

…いや、よく見るとメガネと髪型だけでそう似てる訳でもない?でも一目見た瞬間に似てる!って思っちゃったから。

似てなければニヤニヤ楽しめそうな登場人物だった。

 

…私あの人の顔、好みだったのかなあ…。名前も思い出せないなあ。

 

どうしてもわからなかったことがあって。

眼鏡は、テイヤールが(劇中で名前呼ばれることあった?最後に眼鏡が出てくるときにテイヤール○○って呼び掛けてるようにも聞こえたけど、聞き取れなかった)いつか必ず神の否定にたどり着く!みたいなこと言ってたけど、それは自分も同じじゃないの???もう同じ情報を得てしまっていて、研究者で、学者であれば同じ思考の道をたどることにはならないの??

眼鏡が「自分は彼のことがよく分かってるんだ!」みたいにしゃべりまくってるシーンで、それは眼鏡自身のことなのでは?て言うか「自分こそが彼を理解してる、理解できる!」みたいな感じがすげえな、と思った。

 

異端審問所(なんか変換できなさそうなかっこいい名前)の人は、けっこういい人だね。

総長よりずっと好き。

総長、なんかずるい感じがする。

 

テイヤールが「進化の果てに人間は神になる、神と同じになる」(乱暴な要約)みたいなこと言うの、それはちょっとなんか嫌だなあって思った。傲慢じゃね??

なんだろ「神に限りなく近づける」とか「神と共に過ごせる」とか「神と接触できる」「神(の言葉)を理解できる」とかならいいんだけど…。

聞きなおしてもやっぱり「神と同じになる」って言ってるように聞こえるんだよなあ。

 

演劇とか俳優とかに全く詳しくないので、演者の人たちの信仰についてなんて当然わからない。

分からないんだけど、キャストじゃなくて観客側についても、日本人だとカトリックに限らずキリスト教徒…どころかはっきりと信仰している対象がある人なんて少ないんじゃないんだろうか?

神を信じぬ人間が演じる聖職者の物語を神を信じぬ人間が観るのだなあ…と最初からずっともやもや頭を漂っていた。

信仰心のある人ならば、もっと違う観方、感じ方をするんじゃないのかなあ、と。

いや、そう言えば地元にも教会がやってる幼稚園とか、短大とか、高校とかあったなあ。教会もあったなあ。

あの田舎にもいるのなら、じゃあ、割といるのか。私の周りにいないだけで。画面にちょっとだけ映った観客の中にも当然いるだろうなあ。

しかし、ほら、ファンダメンタリスト?でもなければ、現代人ならば…。いやこれは進化論に限らず、信仰と「何か」の対立・両立についての話と考えれば…。

 

あ、あの呼び掛け、「テイヤール神父」か?